ジュディ・ガーランドの晩年を描いた傑作
映画『ジュディ 虹の彼方に』は、1939年に公開された映画『オズの魔法使』でドロシー役を務めた名子役、ジュディ・ガーランドの悲しき晩年をレネー・ゼルウィガー主演で描いた伝記映画。
まるで生き写しのようだと評されるレネーの演技はハリウッドで大絶賛され、2020年のアカデミー主演女優賞に輝いた。
本作で、わがままで奔放な性格に描かれているジュディだけれど、彼女の幼少期には、晩年の彼女の人間性に強く影響した、想像を絶するようなセクハラや虐待が行われていた。
ステージママを超えた「毒親」
1922年に芸能一家の3姉妹の末っ子として生まれたジュディは、圧倒的な演技力と歌声で、ハリウッド黄金期を代表するトップスターに上り詰めた俳優。
2歳半の頃には既に舞台に立っていた彼女は、13歳の時にアメリカで最も権力を持っていた映画会社の一つ、MGMと契約。16歳の頃、映画『オズの魔法使』のドロシー役に大抜擢され、一気にスターダムを駆け上ることに。
一見順調に見える彼女のキャリアは、全て彼女の母親エセルの手で築かれたものだった。
ジュディの母エセルは、熱心なステージママで、ジュディをスターにするためには手段を選ばない「毒親」だった。2歳の頃ジュディが耳の病気を患った時、お金がかかるからと麻酔なしで手術をさせ、5歳でジュディが髄膜炎にかかった時、家から遠い病院に通うのをいいことに、映画スタジオのコネクション作りに勤しんだことは有名。『ジュディ 虹の彼方に』でも見られるように、ジュディが鎮静剤を多用することになった理由のひとつは、このときの激痛体験の記憶によるものだろうとも言われている。
薬漬け人生の幕開け
エセルが熱心にスタジオとのコネクション作りに勤しんだことで、ジュディをMGMの見習い子役にさせることができたけれど、思春期特有のふくよかな体つきを非難する社長から「デブ」と言われ、エセルは当時のアメリカでは合法的に手に入る痩せ薬として有名だったメタンフェタミン(覚醒剤)をジュディに与えることに決めた。
映画の中で彼女はミッキー・ルーニーとミルクケーキをシェアしていたけれど、現実では絶対にあり得なかった話。米TIMEによると、ジュディがランチを頼もうとすると、プレートに乗ったスープだけが配膳されてきたという。
スタジオは彼女を太らせまいと、チキンスープを中心とした食事を摂らせ、空腹を紛らわすためにブラックコーヒー、80本のタバコ、ダイエット薬(覚醒剤)という“食事”を与えた。
さらに彼女の腰はコルセットで絞られ、人工の鼻をつけるよう指示されたという。このような生活や環境が、10代という育ちざかり、かつ思春期な子供の体と心にどれだけの悪影響を与えたかは想像に難くない。
さらに周囲の大人は、ジュディに殺人的なスケジュールをこなさせるためにも薬物を使った。朝は学校に行き、その後は歌のレッスン。覚醒剤を与えられ、演技指導を受け、朝の5時に帰る生活で、夜は眠るために睡眠薬を与えられるようになったのはこの頃の話。「薬漬けの子役時代」は、こうして彼女の母親をはじめ、周囲の大人によって生み出された。
そして、『オズの魔法使』に出演し人気になったことで、彼女の生活はさらに過酷さを増した。米TIMEによると、彼女は同時に3本の映画を収録していたこともあり、そのスケジュールはほぼ不可能な域に達していたという。
10代にして受けた残酷なセクハラの数々
たびたび「性に奔放だった」と評されるジュディの人生。しかしその裏では、幼少期から多くの性的なハラスメントを受けていた。
MGMで見習いとなったジュディに「デブ」と言ったMGM創設者のルイス・B・メイヤーも、ジュディをセクハラで苦しめた人のひとり。映画『ジュディ 虹の彼方に』の劇中では、舞台裏でジュディに「きみには特別な才能がある」と話しかけてきた人物。
ルイスは現在では、ハーヴェイ・ワインスタインと同様にハリウッドきっての性犯罪者とされており、特にジュディのような若い女の子を食い物にしていた。米TIMEによると、16歳から20歳の間、ルイスはセックスを求めてジュディに何度も近づいたという。
さらに、『オズの魔法使』撮影中には驚きのセクハラも。なんと、小人役の男性たちがこぞってジュディのスカートの中に手を入れたせいでジュディの人生はめちゃくちゃになったと、ジュディの3番目の夫で『ジュディ 虹の彼方に』にも登場するシド・ラフトが自伝で告発している。
ジュディは生前に出演したテレビ番組で司会者のジャック・パーに「彼らは毎晩襲ってきた」と、真剣に言っていた。
本当に才能に満ちていたジュディ
しかしジュディは生来、素晴らしい才能に恵まれていた。
歌唱力は高く、脚本も1度ページめくっただけで覚え、ダンスも、なんでもうまくこなした。その証拠に、ゴールデン・グローブ賞では1955年の映画『スタア誕生』で最優秀女優賞を受賞したほか、1962年には同賞における生涯功労賞のセシル・B・デミル賞を最年少で受賞。グラミー賞は受賞2回、また彼女の死後1999年になって生涯功労賞が授与されている。
しかし、15歳の頃にはもう薬物の中毒症状に陥っていたジュディは、慢性的に体調を壊し、25歳に映画『踊る海賊』に出演した際は、もう『ジュディ 虹に彼方に』で見られたようなアップダウンが激しく予測不能な行動は起こっていたそう。
生涯でジュディは12回以上もの自殺未遂、そして5度の結婚と何回もの人工中絶を行ない、1969年に滞在先のロンドンで亡くなった。まだ、47歳だった。
そんな運命を辿ったジュディの生き様を描いた映画『ジュディ 虹の彼方に』は、2020年3月6日から日本全国で公開中。彼女の人生を思い浮かべながら見たい名作。(フロントロウ編集部)