女性といっても様々な性格の人がいる
映画『プラダを着た悪魔』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』などで知られるエミリー・ブラントが、英The Telegraphのインタビューで、「強い女性主人公」という表現について思いを話した。
「脚本を開けて“強い女性主人公”という言葉を見ることは、最悪のことですよ。まったくって思ってしまう。その時点で私は出て行く。飽きました。そういった役柄は意味が分からないくらいストイックで、四六時中ずっとタフで、タフなことを言うように書かれています」
そのうえで、彼女が主演ドラマ『The English』で演じるキャラクターは、それよりも「もっと予測できない」人物だと語った。
エミリーのように、女性キャラクターを一括りにして「強い女性主人公」というラベルを貼ることに反対する女性俳優は増えている。
もちろん、物語のなかで描かれる女性が男性のサポート役しかなく、現実でも女性は男性よりも弱いとされていた時代から考えれば、強い女性主人公が描かれるようになったのは良いこと。エミリーも強い女性を描くことが悪いことだと言っているわけではなく、彼女が指摘している問題は、強い女性=四六時中タフな女性という女性像ばかり描くようになっていること。しかしそこで止まっていては、男性のサポート役か、強い女性主人公の2パターンしかない。そして世の中の人間が2種類以上に様々であることは子どもでも分かること。人類が2000年以上続けてきた創作活動で、2種類の女性しか描けないのであれば、あまりにひどい進化。
レプリゼンテーションが重要なのは、物語が見ている人に対して大きな力を持つから。例えば、女性を特定のイメージのみで描けば、現実でも女性にはその特定のイメージがつくことになる。ステレオタイプも助長する。また、一部の属性の人が描かれなければ、社会でもその人たちが見えづらくなる。
俳優、監督、そしてプロデューサーとして活躍するブリット・マーリングは、過去にニューヨークタイムズで、「強い女性リーダーを演じれば演じるほど、キャラクターの強さにおける幅の狭い特徴を自覚した。それは、身体的強さや、直線的な野望、合理的であること。(これらは)男性的な様式の強さだ」とし、「もし私の力が、暴力や支配、制圧や植民地化でしか定義されないのであれば、強い女性リーダーにもなりたくない」と綴っている。
また、俳優のナタリー・ポートマンは、「すごく多くの人が『女性は男性より強いし、より良いリーダーだ』っていうようなことを言って、それがフェミニストな発言だと思っていますが、それは理想化するために、女性を、すべての人を制限しているだけです」と意見した。
(フロントロウ編集部)