事の発端となったラナ・デル・レイの「問題発言」とは?
過去にグラミー賞を受賞したこともあるシンガーのラナ・デル・レイといえば、セカンドアルバムのタイトルと同名のシングル「ウルトラヴァイオレンス(Ultraviolence)」に出てくる一節「彼は私を傷つけたけど、私はそれが本当の愛のように感じた」のように、ドメスティック・バイオレンス(DV)を正当化するような内容の歌詞が登場する楽曲が複数あることから、長年、世間で「虐待を美化している」と議論され続けてきた。
そんななか、ラナが自身のインスタグラムを通じて「ドージャ・キャット、アリアナ・グランデ、カミラ・カベロ、カーディ・B、ケラーニ、ニッキー・ミナージュ、ビヨンセは、セクシーでいること、服を着ないこと、セックスをすること、浮気をすることなど、そういった類の曲で1位を獲得してきた。じゃあ、私は私で、たとえその関係が完ぺきなものでなくても愛し合うことを、少なくとも私は“美しい”と感じていること、お金のために踊ること、なんでも好きなことを歌ってもいいかしら?“虐待を美化している”と批判されることなく」と怒りをぶちまけたところ、たまたまラナが名前を挙げた女性アーティストが全員、ラナと同じ白人ではなく“有色人種”だったことから、発言の内容や本題を通り越して人種差別的だと猛批判を浴びることに。
ラナの元の投稿。その後、ラナは別の投稿で「人種差別的だ」という批判に対し、名前を挙げたアーティストは全員顔見知りで、むしろ自身が個人的に“好き”なアーティストだからこそ、あえて彼女たちの名前を例として挙げたのだと釈明した。
じつは先ほどの発言の続きで、ラナが「私はアンチ・フェミニストではない。でも、私のような見た目で、私と同じような態度を取る女性がフェミニズムというくくりの中にいてもいいと思う。『ノー』と言っても男性に『イエス』と受け取られてしまう女性、嘘をつかない繊細な自分でいることを周りから非難されてしまうような女性、強い女性や女性嫌いの男性によって、自分たちの声やストーリーを伝える機会を奪われた女性のための場所があってもいいはず」とフェミニズムを用いて反論していたのだが、このラナの主張に同じくシンガーでフェミニストを公言するザラ・ラーソンが異議を唱えた。
ザラ・ラーソンがラナの意見に一部同意も“反論”
ラナの投稿の「カルチャーに対する疑問」という出だしを真似て、「カルチャーに対する真剣な疑問(笑)」と題した投稿で、ザラは「(ラナが言っていた)“繊細”で“柔和”な女性は、むしろこれまでつねに世間から歓迎されてきたんじゃない? そういう女性こそが『理想』とされてきた。もう何十年も何百年も、女性は繊細で柔和で、さらに何に対しても抵抗しない従順な存在として見られてきた。そして、逆にそのスタンダード(基準)に当てはまらない女性は制圧されてきた」と言うと、“色々なタイプの女性がフェミニズムの考えの中にあってもいいはず”というラナの発言の一部に対し、「現代の女性は“女性”に対する様々なステレオタイプを変えるために戦っている。真のフェミニストと見なされるために、強い女性を演じなければならないこともある。でも、女性(と女性以外のジェンダー)はみんな強い部分と、柔らかい部分を持ち合わせているもの。だからこそ、自分が望むかたちで光を当ててもらえばいい。だって人間は多次元だから」と同意したうえで、「でも、繊細で柔和な女性という、限られたくくりのためだけに戦う必要ってあるのかな?」と反論。
フェミニストであるザラも、自身のヒット曲「ルーイン・マイ・ライフ(Ruin My Life)」で元彼との虐待的な関係について歌っており、この元彼と交際を続けることで自分の人生をメチャクチャにされるとわかっていても、関係を断ち切ることができなかった時期があったことを同曲のなかで赤裸々に語っている。
ただし、ザラは、歌詞の内容はアーティストとしての自由や創造性の問題であって、ラナが持ち出したフェミニズムの問題とは無関係だと主張。DVとフェミニズムに関する問題は、切り離して考えるべきだと訴えた。(フロントロウ編集部)