「ある作品」の為に制作されたとも言える『ジュラシック・パーク』
1993年に公開された『ジュラシック・パーク』は、遺伝子工学で現代に蘇った恐竜が生息するテーマパークを描くSFX超大作で、マイケル・クライトンのベストセラー小説をスティーヴン・スピルバーグ監督監督が映画化した。
手に汗握るスリル満点のエンターテイメント作品として世界中で大ヒットしたことから、その後も1997年の『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』、2015年の『ジュラシック・ワールド』、2018年の『ジュラシック・ワールド/炎の王国』、2022年『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』といった続編が制作されている。
大ヒットシリーズの原点となった今作、当時スピルバーグ監督は『ジュラシック・パーク』を制作するならばという条件で、歴史に残る”あの作品”を制作する許可を得ていた。
スピルバーグ監督が『ジュラシック・パーク』より大切に思っていた作品
ユダヤ人として生まれ育ち、ホロコーストによって親戚を亡くしているスピルバーグ監督が、長年大切に温めて心の底から作りたいと思っていた作品は『シンドラーのリスト』だった。ナチスによるユダヤ人大虐殺から多くの命を救った実在のドイツ人実業家オスカー・シンドラーを描いた作品で、今では映画史上最も重要な歴史映画のひとつとされている。
スピルバーグ監督は1991年の映画『フック』の撮影の後、約10年の構想期間を経て満を持して『シンドラーのリスト』の撮影に移る計画をしていた。しかし当時のMCA/ユニバーサルの社長のシド・シャインバーグが出した条件は、先に『ジュラシック・パーク』を完成させれば『シンドラーのリスト』の制作の許可を出すというものだった。スピルバーグ監督は、原作小説の著者マイケル・クライトン本人から小説が出版される前からから本作のことを聞いており、映画化を熱望していたので、二つ返事で引き受けたという。
極限状態で作られた2作品、助けてくれたのはあの盟友
約束通り1992年の秋にハワイで『ジュラシック・パーク』の撮影を開始し、予定より12日も早く撮影を終えたスピルバーグ監督は、ポストプロダクションの作業が残っているにもかかわらず、『シンドラーのリスト』の撮影のためにすぐさまポーランドへ飛び立った。
その為、日中は『シンドラーのリスト』撮影に取り組みながら、夜は電話会議や衛星チャンネルを使って『ジュラシック・パーク』のポストプロダクションの編集作業にあたっていたという。
恐竜が大暴れするエンターテイメント超大作と、ホロコーストを描くシリアスな作品を同時進行で制作するのは神経をすり減らすような大変な作業で、映画製作者として人生で最も困難な時期の一つだったと後に語っている。それでも『シンドラーのリスト』は、スピルバーグ監督にとって非常に重要な映画で大きな責任も感じていたので、当時は他の作品はあまり重要でないとすらも感じていたという。
あまりの重責に耐えかねたスピルバーグ監督が、ピンチヒッターとして残りの音響作業の監督をお願いしたのは、実は盟友のジョージ・ルーカスだったという秘話も近年、トーク番組『ザ・レイト・ショー』のインタビューで明かしている。
こうして無事に完成した『ジュラシック・パーク』は1993年6月に、『シンドラーのリスト』は同年11月にアメリカで公開された。スピルバーグ監督が全身全霊を込めた『シンドラーのリスト』は、アカデミー賞で悲願の作品賞・監督賞を含む7部門を見事に受賞。
2023年3月には、映画監督になる夢を叶えるまでを描いた自伝的作品『フェイブルマンズ』が公開され話題になったばかりだが、今後もスタンリー・キューブリック監督から受け継いたナポレオンの伝記ドラマ『Napoleon(仮題)』や、1968年公開の名作『ブリット』の主人公フランク・ブリットを新たに描くブラッドリー・クーパーが主演の作品等、最新作も控えている。世界中から愛されるスピルバーグ監督が生み出し続ける、今後の作品も見逃せない。(フロントロウ編集部)