レッド・ホット・チリ・ペッパーズの楽曲「I Could Have Lied」は、ボーカルのアンソニー・キーディスが故シネイド・オコナーとの恋を歌った1曲だった。(フロントロウ編集部)

シネイド・オコナーが56歳で死去

 1990年にリリースされたプリンスによって書かれた楽曲「愛の哀しみ(Nothing Compares 2 U)」が大ヒットを記録した、アイルランド出身のシンガーであるシネイド・オコナーが56歳で死去。

画像: シネイド・オコナーが56歳で死去

 1991年にローリング・ストーンが選ぶアーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞したほか、ブリット・アワードでは国際女性ソロアーティスト賞を受賞するなど、シンガーとして注目されていたなか、1992年にテレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演し、カトリック教会内の児童性的虐待への抗議として、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を破ったことでNBCから永久追放されて世界的な注目を浴びた。

 メンタルヘルスの問題とも闘っており、2016年には自殺未遂。その後2018年にイスラム教に改宗。2022年には子どものシェインを自殺で失い、シネイドは亡くなる10日前にも自身のツイッターでシェインについて触れていた。

 波乱万丈なシネイドだったが、彼女との恋愛を基に楽曲を制作した人がいる。

アンソニー・キーディスがフラれた時に作った「I Could Have Lied」

 それはレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフロントマンであるアンソニー・キーディス。レッチリが1991年にリリースしたアルバム『Blood Sugar Sex Magik』に収録されている楽曲「I Could Have Lied」は、アンソニーがシネイドにフラれた後に書いた楽曲。

 1990年に短い間交際していたアンソニーとシネイドだが、ある夜、シネイドからの留守電で「電話しないで欲しい」と言われ、それが永遠の別れになったよう。アンソニーは自身の半生綴った『Scar Tissue』で「『アンソニー、シネイドです。明日ロサンゼルスを離れるので、その前に電話したり、来たりしないでほしい。さようなら』。僕は打ち砕かれました。一夜にして、『早くまた会いたい』から『電話するな、寄るな』となってしまったんです。誰に頼ればいいのかわからなくて、ジョン(フルシアンテ)に電話したんです。彼は、彼女が僕にした扱いに怒り、その夜遅くに集まって、それについて曲を作ろうと提案してくれたんです」と振り返っていた。

画像: アンソニー・キーディスがフラれた時に作った「I Could Have Lied」

 その後アンソニーは「I Could Have Lied」を収録したカセットをシネイドの自宅の郵便受けに入れるも、それ以降、シネイドからの連絡はなかったという。

 ちなみにアンソニーはシネイドと交際していたという認識だったが、シネイドはアンソニーについて「彼と関係を持ったことは一度もない」と関係を否定し、「彼が書いた曲なんてどうでもいい」と2009年にQにて話していた。

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