フロントロウ編集部のエディターがD23 Expo 2022の会場を取材しているなかで、偶然ある人物と、「どこから来たのですか?」と立ち話が始まった。話を訊いてみると、なんとその人物の正体は、ウォルト・ディズニー・カンパニーの歴史を知る元パイロットのマーク・マローン氏だった。ウォルトのパイロットだった父親を持つマローン氏に、飛行機の歴史や、ウォルトとの貴重な思い出について取材した。(フロントロウ編集部)

D23 Expo 2022に展示されたウォルト・ディズニーの飛行機“ザ・マウス”

 現地時間9月9日から9月11日にかけて、米カリフォルニア州アナハイムで開催された“究極のディズニーファンイベント”D23 Expo 2022。3年ぶりに開催された今年のD23 Expoでも、恒例となっている豪華セレブ参加の新作映画/ドラマのショーケースや、ディズニーにまつわる貴重な展示などがファンに向けて公開されたが、数ある展示の中でも特に今年の目玉だったのが、“ザ・マウス”の愛称で知られる、グラマン社製のガルフストリームI型機。

画像: D23 Expo 2022に展示されたウォルト・ディズニーの飛行機“ザ・マウス”

 これはウォルト・ディズニーが所有していたもので、ウォルト・ディズニー・カンパニーの歴史において重要な役割を果たした飛行機。1992年に移動手段としての役目を終えて以降は、2014年までフロリダ州オーランドにあるディズニーMGMスタジオ(現ディズニー・ハリウッドスタジオ)に展示されていたが、今回、D23 Expo 2022で初めてアメリカの西海岸で展示されることとなった。

元パイロットのマーク・マローン氏にインタビュー

 フロントロウ編集部ではD23 Expo 2022を現地取材。もちろん、“ザ・マウス”もこの目に収めておきたかったので展示されているエリアに向かったのだが、すると、そこでエディターが出会ったある人物と「どこから来たのですか? 私の飛行機を楽しんでくれていますか?」という立ち話が始まることに。

 話を訊いてみると、なんとこの人物は、“ザ・マウス”の初代パイロットを務めたチャック・マローン氏の息子で、自身も父親の後を継いでこの飛行機のパイロットを務めた経歴を持つ、マーク・マローン氏だった! 日本から取材に来たことを伝えると、「ぜひこの飛行機の話をさせてください」とマーク氏。取材がしやすい静かな場所へと自ら案内してくれて、“ザ・マウス”の歴史について丁寧に語ってくれた。

画像: 快く取材に応じてくれたマーク・マローン氏。

快く取材に応じてくれたマーク・マローン氏。

 「この飛行機はウォルトが個人的に所有していた飛行機なんです」とマーク氏は教えてくれた。「ウォルトが自らタンジェリンオレンジのカラーを選んで、デザインしました。タンジェリンオレンジは、彼が存命だった1960年代にウォルト・ディズニー・カンパニーを象徴していたカラーでした」。

 続けてマーク氏が話してくれたのは、自身の父親とウォルトの出会いについて。「私の父であるチャック・マローンは、ハリウッド・バーバンク空港にあるスカイ・ローマーズという会社でチーフパイロット兼ゼネラル・マネージャーを務めていたのですが、父の会社の顧客の1人が、『ジャングル・ブック』などのアニメーターだったウルフガング・ライザーマンでした。彼は(空軍にいた経歴を持つ)パイロットでもあったので、ウォルト・ディズニーが飛行機での移動を検討し始めた時に、ウルフガングに『どこへ(パイロットを)依頼すればいいかな?』と訊きました。その時にウルフガングが、『バーバンク空港へ行きましょう。僕のチーフ・パイロットであるチャック・マローンを紹介しますよ。彼はチャーター機を持っているので、どこへでも連れて行ってくれるはずです』と、ウォルトに私の父を紹介したのです」。

 「父の会社は1962年からウォルトの飛行機での移動を担当するようになり、主に南カルフォルニア周辺を航空しました。ここアナハイムのディズニーランドへも行きましたし、ウォルトが夏に過ごしていた別荘があったパーム・スプリングスへも行きました。ウォルトはそれをとても快適に思ってくれたそうで、彼が私の父に、『自分で飛行機を所有しようと思う。私のパイロットになって、航空部門を設立してほしい』とお願いしたのです。父はそれを受諾して、ビーチ・クラフト社製の9人乗りの飛行機であるクイーンエアを購入するよう、1962年にウォルトに提案しました」と続けたマーク氏。彼の父親であるチャック氏がウォルトのパイロットに任命されたのは、この時だったという。

ウォルト・ディズニー・カンパニーの発展を支えた“ザ・マウス”

 ディズニーファンであればご存知の方も多いと思うが、ウォルト・ディズニーの“ディズニーランド構想”は、D23 Expoの会場であり、ディズニーランドや現在ではディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー・パークがあるカリフォルニア州アナハイムから始まり、その後、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートがあるフロリダ州オーランドへと計画が拡大していった。“ザ・マウス”は、そうしたウォルトの構想を現実にしていく上で、欠かせない移動手段となったとマーク氏は話す。

 「その後、航空部門が軌道に乗り始めたので、彼らはカリフォルニア以外の場所でも大きなプロジェクトを立ち上げたいと思うようになりました。世の中に、ディズニーとは何たるかを示そうとしたのです」とマーク氏は続けている。「彼らは飛行機で外へと向かい、1964年〜1965年にニューヨークで開催された万国博覧会で、リンカーン大統領のアトラクションを展示しました。そのために1963年に購入したのが、今ここに展示されているガルフストリームの飛行機です。この飛行機は、カルフォルニアのバーバンクを拠点にしていたイマジニアたちがニューヨークに移動して、万国博覧会の準備を行なえるようにするために購入したものなのです」。

 「万国博覧会での展示は大成功を収め、ディズニーは広く世界に知られることになりました。その成功がきっかけとなり、ウォルトは次なる計画として『フロリダ・プロジェクト』という、後に今のウォルト・ディズニー・ワールドとなるプロジェクトに乗り出しました。その時にも、この飛行機でイマジニアたちはバーバンクと(フロリダ州)オーランドを行き来して、オーランドの土地を開発し、マジック・キングダムの建設をスタートさせました。当時は、イマジニアたちがこの飛行機で週に最低でも2往復はしていて、それが8年続くことになりました」。

画像: ウォルト・ディズニー・カンパニーの発展を支えた“ザ・マウス”

 「それから、この飛行機はディズニーランドから子どもたちを乗せて出発するツアーのためにも使われました。『ピーター・パン』や『白雪姫』などのアニメ映画が再上映された時にプロモーションとして行なわれたツアーで、子どもたちは30日間のツアーに出かけ、毎日違った都市を訪れ、ライブショーを鑑賞したり、テレビ番組に出演したり、子どもたちが入院している病院を訪れたり、ラジオ番組のインタビューに応じたり、ショッピングモールで発表を行なったりしました」。

 父親であるチャック氏が引退してからは、マーク氏も父親の後を継いで、“ザ・マウス”のパイロットを務めたという。「私自身も、1979年から1985年までこの飛行機のパイロットを務めることができました。その時には、あなたのようなメディア関係者を送り届けるなどしていましたよ」と、マーク氏は嬉しそうに思いを馳せる。「オーランドからニューヨークやボストンまで出向いて、10人くらいをこの飛行機に乗せて、ディズニー・ワールドへと案内して、パークで今何が行なわれているかを見てもらうなどしました。その方たちを案内し終えたら、次はシカゴやデトロイトへと向かって、今度はラジオ局やテレビ局の方々を迎えに行くんです」。

 「この飛行機の歴史はそれほど長いのです。飛行時間の累計は2万時間ほどで、父であるチャック・マローンがそのうちの1万400時間飛び、私がパイロットを務めたのはおよそ5年間でした」と、マーク氏は飛行機の長い歴史を教えてくれた。

ウォルト・ディズニーとの幼少期の思い出

 取材の最後に、マーク氏にウォルト・ディズニーとの思い出についても訊いてみると、幼少期に一緒に過ごした思い出があるという。「ウォルト・ディズニーとの思い出は、私が9歳だった時に一緒に飛行機に乗ったことですね」とマーク氏は教えてくれた。「カリフォルニアのシーワールドへ連れて行ってくれたんです」

 「ただ、私はまだ子どもだったので、『動物を見に行くんだ』という感じで、ウォルト・ディズニーという方がどんな人物なのか、その時は知りませんでした。まるで私のおじいさんのように接してくれましたよ。親切にも、私を誘ってくれたのです。彼が特別な方だったことが分かったのは、後になってからでした。ウォルトと一緒に過ごすことができた思い出は、今でも思い出すと温かい気持ちになります」

 D23 Expoに集まった多くのファンを魅了した“ザ・マウス”は今後、パームスプリングス航空博物館へと移送されて、10月中旬よりウォルト・ディズニーのメモラビアと共に展示される予定となっている。(フロントロウ編集部)

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