バーバラ・ローデンによる『WANDA/ワンダ』
フェミニズム映画の金字塔的作品とうたわれる『WANDA/ワンダ』を見た。本作の監督で主演、脚本も手掛けたバーバラ・ローデンは、そこまで名前が知られている女性ではない。48歳で亡くなった彼女は、映画『欲望という名の電車』や『エデンの東』などで知られるエリア・カザン“の妻”として有名だった。
そんな彼女が、カザンの妻ではなく、バーバラ・ローデンとして生きた証。1970年発表の『ワンダ』はフェミニズム映画と言われるが、決して闘う女性が描かれるわけではない。しかし、この社会を生きる、自分が誰なのか分からない女性を描いた本作は、あまりにもフェミニズムを先取りしている。
地方に生きる女性の現実
本作は、映画史に残る功績を成し遂げていると感じることが1つある。それは、地方で生きる女性の日々を描いていること。「スクリーンの中の人々は完璧で、劣等感を抱かせた」と語るバーバラが描いた女性は、子供の世話を放棄し、裁判には遅刻し、親権は父親が持ち、仕事がないワンダだ。彼女はバーで知り合った傲慢な男と、いつの間にか犯罪の共犯者として逃避行を重ねる。
作品の舞台はペンシルベニア州の田舎。そしてバーバラは、ノースカロライナ州のアッシュビルという街で16歳までを過ごした。彼女が生まれたのは1932年で、30年代から50年代のアッシュビルの人口は5万人を超える程度だった。
「私もニューヨークに来なければ、刑務所に入るか、死んでいたかもしれなかったのです」
そう語る彼女は、本物の地方を描く。
世界が狭い地方では、男性に道端で置き去りにされても、帰り道はなんとなく分かる。都会だったらセンスがあるとは思われない男性が、女には上から目線で口を出してくる。草むらや、放置された場所がたくさんあって、子供たちが遊んでいる。空は広いが、世界は狭い。哀しいわけじゃない。でもなんとも言えない暗さが心の中にある。
そんな地方の芯を描いた本作は、アメリカ映画とは思えない、むしろフランスのヌーヴェルヴァーグ作品のような雰囲気を持つ本作。そしてスタイリッシュに可愛い衣装。だからこそ、その底に流れる薄暗さが引き立てられる。
わき出てくる男たち
本作が、性的暴行を描かなかったこともまた、特筆すべきかもしれない。本作でワンダは性的暴行を受けることはなかったが、見知らぬ男とセックスをしたら置いてきぼりにされ、バーで男と顔を合わせれば、殺人犯だったその男と旅に出ることになり(たぶんセックスつき)、見知らぬ男の車に乗れば性的暴行を受けそうになる。
女性が尊厳を傷つけられる出来事は、日常のなかに普通の出来事として起こり続ける。それは犯罪ではないかもしれないが、だからこそタチが悪いし、タチが悪いとも思われていないのがさらにタチが悪い。というのも、本作を見て作中の男たちはタチが悪いって思う観客は少ないのでは? その代わりに、“よくあること”だと感じるはず。だからこそ、ワンダという女性の価値観や人生に影響を与えるこれだけの出来事が起こっているのに、『ワンダ』は物語にそこまで“起伏がない(=波乱が起こっていない)”ように感じる。
そんな本作は、すでにワンダが糸の切れた凧のような状態になっている時から始まる。彼女の過去には一切触れられていない。彼女は生まれた時からその性格だったかもしれないし、生きるなかでそうなっていったのかもしれない。
ワンダは生きる力が“有”る
本作の批評のなかには、ワンダは無知で無頓着で無防備で無気力で無目的で無自覚という“無”が多い女性という意見もあるが、果たしてそうか?
元気に自分をアピールするわけではないにしろ、少なくとも、ワンダは働こうとして前の職場に掛け合うシーンがある。また、自分とセックスした後に、隠れて車で逃げていこうとする男を追う時に、彼女はブラジャーをするのだ。
それまでのワンダの雰囲気からすると、ブラなんて気にせずに飛び出しそうなのに。ブラなんてめんどうなものをちゃんと身につけようとする描写がある女性は、果たして本当に無頓着だろうか。
ちなみに、ブラが女性抑圧の象徴の1つだとして、ウーマン・リブの運動のなかでブラを燃やすことがアメリカで60年代終わりから始まった。それが本作に影響を与えていたとしたら、このシーンの解釈は変わってくるが、バーバラ本人が本作を作った時にはウーマン・リブについては何も知らなかったと言っているため、やっぱりワンダはそこまで“無”な女性ではないと思える。
ワンダの人生に何を考えるか
※以下、ネタバレが含まれます。
バーバラは本作について、「女性の解放ではなく、女性や人々に対する抑圧を描いた」と語っている。だからこそ、本作はカラーがあるのに薄暗いのだろう。
しかし最後の終わり方には、やっぱりほんの少しの解放を感じてしまう。
バーバラは、男女が銀行を襲撃し、男はその場で射殺され、女は懲役20年を言い渡された実際の事件から本作の着想を得たという。しかし本作では、ワンダは殺されたMr.デニスと心中もしなければ、捕まることもなく、普通に生活を続けていく。そして最後に彼女に声をかけたのは、女性だ。
ストーリー的には、本作は男女の逃避行モノと言うことも可能かもしれないが、Mr.デニスが次第にワンダに執着し、銀行強盗の共犯にするほど信頼したのに対して、ワンダが彼に自分の心をさいたことはないのでは?
バーバラは本作について、「風変りなロマンスもなければ、個人の贖罪や家族の和解の物語でもない」と語る。そのとおり、ワンダはただ生きているだけ。
きっとワンダのこれからの日々も、このままいけば明るくはならないだろう。しかし、その終わり方には、なぜだか少しの解放を感じてしまうのだ。
(フロントロウ編集部)