第98回アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた『ヒンド・ラジャブの声』の先行上映会が、東京・新宿武蔵野館で開かれた。壇上でカウテール・ベン・ハニア監督が明かしたのは、この映画がどうやって動き出したのかという話だった。(フロントロウ編集部)
数秒の音声クリップが、監督の日常を止めた
初来日して新宿武蔵野館の観客の前に立つ——7月末にそう伝えた予定が、8月18日(火)の夜に実現した。配給のスターキャットアルバトロス・フィルムによると、この日のチケットは完売。監督のカウテール・ベン・ハニアと、プロデューサーのナディム・シェイクルーハが登壇した。

鑑賞直後の観客を前に、ベン・ハニア監督はまず「皆さまに来ていただき、とても感動しております。それはヒンド・ラジャブの声がここ日本の地に響き、届いたということです」と切り出した。
制作のきっかけは、まったく別の作品の準備中に訪れたという。「実は、プロデューサーのナディムとは何年もかけて脚本を執筆していた別の作品の撮影準備に入ろうとしていたタイミングでした。しかしそれと同時に、わたしたちは、ガザで起きていることも気にかけていたんです」。そんなある日、SNSでパレスチナ赤新月社が投稿した、ごく短い音声クリップを耳にした。それがヒンド・ラジャブの声だった。
「その声は私の頭から離れなくなり、普段通りの日常生活を送ることができなくなってしまったのです」と監督は振り返る。「ヒンドの声を聞いたとき、彼女が私に向かって“助けて”と訴えかけているように感じられたんです。そのときわたしは深い悲しみと同時に激しい怒りを覚え、自分に何ができるだろうかと考えました」。
撮っていいかを決められる人は、ひとりしかいなかった
制作を決意した監督が最初にしたのは、企画書を書くことでも出資者を探すことでもなく、ヒンド・ラジャブの母親に連絡を取ることだった。「この映画を作るべきか否かを決める権利を持つ唯一の人物は、彼女をおいて他にいないと思いました」。
電話口の母親は「信じられないほど気高く」、監督にこう言ったという。「もし明日、自分が死んでしまったら娘の物語は誰にも知られることもなく、語り継がれることもないのだろうかと考えていました。でもあなたが電話をくれたから、もし私が今日命を落としたとしても、ガザの外の世界に娘の物語を伝えてくれる人がいると知ることができた。それだけで幸せです」。
監督は続ける。「その言葉を聞いた瞬間、すべてが動き出しました」。
シェイクルーハも「とにかくこの作品は早く作り、公開することが大事だと思いました。ガザの状況は悪化しています」と、制作を急いだ理由を語った。
70分の通話記録と、衛星写真
本作は、パレスチナ赤新月社から提供された実際の通話データと、対応にあたったスタッフたちの証言をもとに構成されている。監督は赤新月社のメンバーと会い、ネット上に出回っていた短い抜粋ではなく、記録されているすべての音声を送ってほしいと依頼した。
届いたのは、劇中に登場するスタッフのオマール、ラナ、ニスリーン、マフディらがヒンドと会話を続けた、約70分に及ぶ通話記録だったという。「それを聴いた瞬間、ヒンド自身の声こそがこの映画の背骨になるべきだと確信しました」。監督はスタッフ一人ひとりから当日の動きを聞き取ったうえで脚本を書き、書いた脚本は本人たちに読んでもらってフィードバックを受けた。
観客からは、政治的な意味で身の危険を感じなかったのかという質問も出た。監督は「今のこのタイミングでパレスチナの方に声を与えるということが、一部の人たちにとっては歓迎されないだろうということは私たちも分かっていました」としたうえで、こう答えている。「当初、イスラエル側は“そのエリアに軍はいなかった”と主張していましたが、その後、事件現場の車の周辺にイスラエル軍の戦車が存在していたことを示す衛星写真が出てきて、それを否定できなくなりました」。制作に入った段階で確固たる証拠が出そろっていたため、恐れずに済んだのだという。シェイクルーハも「公開前に細かいところまで正確性を担保して、いかなる攻撃に対しても隙を絶対に与えないようにした」と付け加えた。
客席にいた古舘寛治が、壇上に上がった
イベント終盤、サプライズゲストとして俳優・監督の古舘寛治が登場した。マスコミ試写でいち早く本作を観ていたという古舘は、「いわゆる“映画”という既存のカテゴリーには到底収まらないものを見てしまったと衝撃を受けました。監督が来日されると聞き、どうしても直接お会いして敬意を伝えたいとお願いしてここに来ました」と挨拶。

自身もガザ情勢を追いながら「何もできないでいました」という古舘は、「そんな中でこの映画を見たとき、“映画でこれほどまでにとんでもないことができるのか”と思い、深い感銘を受けました」と続けた。これを受けた監督は「私もナディムも大の日本映画ファンで、日本という国が培ってきたストーリーテリングの文化を深く敬愛しています」と応じ、「ヒンドの声が日本にもしっかりと届いたんだなということを実感させられました」と返した。

最後に監督は、本作が「土曜日の夜にリラックスして楽しむような、いわゆる“フィールグッド・ムービー”ではありません」と断ったうえで、日本の観客に向けてこう語りかけた。「歴史を振り返れば、地理的な距離を超えて全人類の心に触れるような深い“傷”が存在します。日本の方々にとって、それは広島や長崎で起きた悲劇ではないでしょうか」。そして「この映画は、ただ観客の皆様が涙を流して終わり、というものではなく。現状を変えるための“Call for Action(行動への呼びかけ)”なのです」と締めくくった。
『ヒンド・ラジャブの声』は、第82回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を含む8冠を獲得した89分の作品。日本版予告では音楽家の春ねむりが声を託されている。9月4日(金)より新宿武蔵野館、Bunkamura ル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座ほかで全国公開。
















