Photo: ゲッティイメージズ、ニュースコム、スプラッシュ/アフロ
愛妻家のリーアム・ニーソンに、結婚16年目に起こった悲劇。最愛の妻ナターシャ・リチャードソンとの出会い、そして別れ、さらに、別れから10年以上経つ現在のリーアムの思いとは。

馴れ初めは舞台、女優キラーのリーアムを射止めたナターシャ

 北アイルランド出身のリーアム・ニーソンは、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』で1994年のアカデミー主演男優賞にノミネートし、1996年の『マイケル・コリンズ』でヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞を受賞。71歳の誕生日を迎えた2023年、記念すべき100本目の出演映画『探偵マーロウ』が公開された。

 そんなリーアムがのちに結婚した俳優のナターシャ・リチャードソンに出会ったのは、映画『シンドラーのリスト』の成功で大物俳優と認められる直前。ナターシャはロンドン出身で、映画監督の父親と女優の母親の元に生まれる。ロンドンの演劇学校で学んだ後、様々なジャンルの舞台で活躍。その後ニューヨーク・ブロードウェイにも進出し、『キャバレー』でトニー賞を受賞。

画像1: 馴れ初めは舞台、女優キラーのリーアムを射止めたナターシャ

 そんな2人は、1993年のブロードウェイの舞台『アンナ・クリスティ』で共演者として運命的な出会いを果たす。当時29歳だったナターシャはプロデューサーのロバート・フォックスと結婚しており、40歳のリーアムはヘレン・ミレン、ジュリア・ロバーツ、バーブラ・ストライサンド、ブルック・シールズなどの女優たちと浮名を流す独身貴族だったが、2人の相性ははたから見ても明確で、舞台はトニー賞にノミネートされるなど大成功。さらにリーアムは、この劇を見たスピルバーグ監督から『シンドラーのリスト』の主演をオファーされることになった。

 リーアムはのちに、米テレビ番組『60ミニッツ』で当時を振り返り、「俳優とあのような爆発的な化学反応が起きたことはそれまでなかった」とコメント。ナターシャの「晴れやかな美しさ」に圧倒され一目惚れのような恋の始まりだったそうで、「私たちは(舞台で)素晴らしいダンスをしているようでした。毎晩、自由に踊っていたのです」と語った。

画像2: 馴れ初めは舞台、女優キラーのリーアムを射止めたナターシャ

 舞台中はひそかに惹かれ合っているだけだった2人の関係が動いたのは、舞台が終わって、リーアムが『シンドラーのリスト』を撮影していた時。New York Daily Newsによると、当時すでにプロデューサーの夫と離婚していたナターシャの誕生日に、『シンドラーのリスト』を撮影中だったリーアムから、「僕に(年齢が)近づいてきているよ。たくさんの愛を込めて、オスカー(※リーアムが『シンドラーのリスト』で演じた役名)より」というバースデーカードが届いたのだという。

 この手紙にナターシャが、「まるで相棒からの手紙みたい。私たちの関係は何なの?」とはっきりとした言葉で返したことで、2人は交際に発展。翌年の1994年、ミア・ファロー、エマ・トンプソン、スティーヴン・スピルバーグ、ケイト・キャプショーを含む約70人の豪華なゲスト達の前で結婚式を挙げ、1995年には長男のマイケルが、1996年には次男のダニエルが誕生。誰もが羨む幸せな結婚生活を送っていたが、2人の幸せな時間は、突然終わりを告げる。

ナターシャ・リチャードソンの事故死、一体何があった?

 2009年3月16日、ナターシャはカナダ・ケベック州のスキー場で休暇を過ごしていたが、正午頃に初心者向けのコースでスキーのレッスンを受けている際に、転倒し頭部を打撲。救急車が呼ばれ、ナターシャには病院での検査が勧められたが、ナターシャ本人が大丈夫だからとそれを拒否。医療援助を拒否する権利放棄書にも署名したという。

画像: ナターシャ・リチャードソンの事故死、一体何があった?

 心配したインストラクターとスキーパトロール隊のメンバーに付き添われてホテルに歩いて帰ったナターシャ。部屋に戻った時点で事故による影響は見せておらず、映画『CHLOE/クロエ』の撮影でトロントにいたリーアムに電話をかけた際にも、「雪の中で転んでしまったの」と、普段と変わらない様子で伝えていたという。

 しかし午後3時にナターシャが頭痛を訴えたため、近隣の病院に搬送される。午後6時にはより治療設備の整った、約140キロ離れたモントリオールの外傷センターに搬送されることに。リーアムはナターシャが深刻な状態にあるという知らせを受け、すぐにトロントの撮影現場から病院へ。トロントからモントリオールは飛行機で約1時間半。大急ぎで向かったが、到着したときには既に脳死状態にあったという。

 事故から2年後の2011年にリーアムがEsquireに語ったところによると、病院に到着した当初は病院のスタッフに誰だか分かってもらえず、救急治療室に入ることが許されなかったという。その後、ナターシャの脳が「頭蓋骨の側面に押しつぶされている」ことが明らかになったX線写真を見つめながら、リーアムはかつて妻と交わした、お互いがもし最悪の事態に陥ったら「生命維持装置を外す」という約束を思い出したという。

 2014年にリーアムは当時のことを米テレビ番組『60ミニッツ』でこう語っている。病室で横たわっているナターシャに、愛していると言った後に「君はもう戻ってこられないんだ、君は頭を打ってしまったんだ。聞こえているかどうかわからないけど、これが君に起こったことなんだ。今からニューヨークに連れて帰るからね。君の家族や友人皆が会いに来てくれるからね」と伝えたという。

 その後ナターシャはニューヨークに飛行機で運ばれ、マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにある病院に入院した。そこで愛する人たちに囲まれた彼女は、事故から2日後の2009年3月18日に生命維持装置を外され、45歳で亡くなった。解剖の結果によると、頭部の打撲により脳と頭蓋骨の間に血液がたまる硬膜外血腫が発生したことが確認された。

画像: ニューヨークにあるナターシャ・リチャードソンのお墓。

ニューヨークにあるナターシャ・リチャードソンのお墓。

 リーアムによると、ナターシャの臓器は3人の患者に提供されたそうで、リーアムは「素晴らしいことだ。彼女もきっととても喜んでくれると思いますよ」と語った。

 事故の後、撮影中だった『CHLOE/クロエ』の撮影に戻ったリーアム。俳優としての仕事はこなしたものの、当時、カメラが回っていない時には悲しみが伝わってくるほどだったと報じられ、共演者のアマンダ・サイフリッドはStella誌に、「慰めの言葉をかけたいと思っても、何を言うべきか、何をすべきかは分からない状況でした」と語り、「そのことについては話題にしませんでした」と明かした。

今も現在形で妻を語るリーアム、今でも妻と「話す」

 たとえ死が2人を引き離そうとも、約30年前の1990年代にナターシャに出会ってからは、リーアムが愛する人はナターシャのみ。2023年の今も、リーアムは亡き妻のことを現在形で語っている。

画像: 今も現在形で妻を語るリーアム、今でも妻と「話す」

 事故の5年後に行なわれた『60ミニッツ』のインタビューでは、ニューヨークの自宅のドアが開くたびに、“ナターシャが帰ってきたのではないか”と思うことがあるという胸の内を明かしたリーアム。

 英語では、他界した妻を指す「late-wife(亡き妻)」という言葉があるが、リーアムは必ずナターシャについて「wife(妻)」と表現しており、2023年6月には、ポッドキャスト番組『Conan O’Brien Needs Friends』で、「私とナターシャは今でも毎日話していますよ、毎日ね」と、死後10年以上も経った今でも、ナターシャに毎日話しかけていると告白した。

 そんなリーアム、過去にはフェイスブックでこうアドバイスを送っている。「16年間彼女の夫でいられたおかげで、無条件に愛することを学べました。私たちは立ち止まって、配偶者に感謝しなければならない。なぜなら、ある日、スマホから顔を上げたとき、彼らはもうそこにいないのだから。私がこの経験から最も学んだことは、毎日を最後の日のように生き、愛するべきだということです。なぜなら、いつかそうなりますからね」。

リーアムが悲しみを乗り越えるために助けになった映画

 アラスカの山中での遭難・生還をとらえた2011年の映画『THE GREY 凍える太陽』をはじめ、リーアムには妻の死という悲しみから救ってくれた映画がいくつかあるようだが、とくに特別な作品が、2020年に息子のマイケルと共演したコメディ映画『Made in Italy(原題)』だという。

 本作は、疎遠になった父と息子が亡き妻/母に残された家を売るためにイタリアに行く物語。トーク番組『グラハム・ノートン・ショー』に出演したリーアムは、「とてもデリケートな感情を表すシーンがいくつかありましたが、その感情を呼び起こすのは簡単でした。撮影に向けて何日かかけて感情を高める必要もなかったです。マイケルも同じだったと思いますよ」と話すと、映画の撮影は「ある意味で、カタルシスだった」と明かした。

This article is a sponsored article by
''.